1915年(大正4年)12月、北海道苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町三渓)で発生した「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」は、日本史上最悪の熊害事件として今なお語り継がれています。
わずか6日間の間に7名が死亡、3名が重傷を負い、村全体が恐怖に包まれました。
事件の背景には、冬眠できずに飢えた“穴持たず”のヒグマがいました。
池田家のトウモロコシがヒグマに2度荒らされ、猟師が駆除を試みるも失敗。
このとき負傷したヒグマが後の加害個体「穴持たず」でした。
朝8時ごろ、太田家にヒグマが侵入。
内縁の妻・**阿部マユ(31歳)と預かっていた幹雄(6歳)**が襲われました。
マユさんは連れ去られ、遺体は山中で発見。体の大部分が食べ尽くされていました。
太田三郎本人は外出しており、難を逃れています。
事件翌日の夜、太田家で通夜が行われていた最中にヒグマが乱入。
村人が逃げ惑う中、ヒグマは明景(あけがた)家に移動し再び襲撃。
妊婦を含む4人が死亡、数人が重傷を負いました。
人間を恐れぬヒグマは、発砲にも怯まず再び山に消えました。
村の複数の農家に出没し、穀物や鶏を荒らすなど被害が拡大。
村人の恐怖は頂点に達し、多くが避難を始めました。
名猟師**山本兵吉(当時57歳)**が単独で山中に入り、ミズナラの木の下でヒグマを発見。
心臓と頭部を撃ち抜き、事件は終結。
ヒグマの体長は約2.7m、体重約340kgという巨大な個体でした。
氏名 | 関係 | 結末 |
---|---|---|
阿部マユ(31歳) | 太田三郎の内縁の妻 | 連れ去られ死亡 |
幹雄(6歳) | 預かっていた子供 | 即死 |
太田三郎 | 本人 | 不在で生存 |
氏名 | 関係 | 結末 |
---|---|---|
明景タケ | 母(妊婦) | 即死・胎児も犠牲 |
明景巌(11歳) | 長男 | 重傷を負い死亡 |
明景春義(6歳) | 次男 | 生存説あり(※後述) |
明景ヤヨ | 長男の妻 | 重傷を負い生還 |
明景梅吉(1歳) | 四男 | 頭部負傷も生還 |
明景要吉(8歳) | 三男 | 負傷しつつ脱出成功 |
明景力蔵(10代) | 長男 | 無傷で生還 |
明景ヒサノ | 親戚女性 | 気絶中に難を逃れる |
斎藤金蔵 | 夫 | 即死 |
斎藤タケ | 妻(妊婦) | 胎児ごと死亡 |
斎藤三男・四男 | 子供 | 死亡(四男は後に後遺症で死亡) |
12月14日、山本兵吉が単身で山中に入り、ついにヒグマを射殺。
この勇敢な行動で村は救われました。
しかし、熊の巨大さと残虐さに村人たちは震え上がり、その夜暴風が吹き荒れたことから、
「熊風(くまかぜ)」「羆嵐(くまあらし)」と呼ばれ語り継がれました。
事件で奇跡的に生き残った人々も、壮絶な人生を歩むことになりました。
事件当時6歳。家族を失いながらも生還。
成長後、「熊撃ち」と呼ばれる伝説のマタギとなり、100頭以上のヒグマを討伐。
晩年には慰霊碑を建設し、語り部としても活動しました。
彼は「熊を恨むな、人の油断を恨め」という言葉を残しています。
1985年、事件70回忌の講演中に急逝。最後まで三毛別事件と向き合い続けました。
襲撃で重傷を負いながらも生還。
事件後も地元・苫前町に残り、現地保存や慰霊活動に協力。
家族を失った悲しみを抱えながら、地域の語り部として生涯を過ごしました。
1977年、春義らの尽力で「熊害慰霊碑」が建立されました。
現在も苫前町では毎年慰霊祭が行われ、
自然と人間の共存、そして「野生への敬意」を伝える教訓として語り継がれています。
作家・吉村昭による小説『羆嵐(くまあらし)』は、この事件をもとに執筆されました。
そのリアルな描写と圧倒的な恐怖感は多くの読者を震撼させ、
後に映画やドキュメンタリー化もされています。
三毛別羆事件は、単なる熊害ではなく、
「人間の油断」と「自然の力」の恐ろしさを突きつけた出来事でした。
命がけで生き延びた人々のその後もまた、
“人と自然の共生とは何か”を問い続ける物語として今も語り継がれています。
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