Categories: 話題の人物

女装愛好家【キャンディー】さんは何者?波乱万丈な人生と女装に目覚めたきっかけなどわかりやすくまとめました!

昭和から令和へ。時代が大きく変わる中で、「女装」という一風変わった生き方を貫いた一人の人物がいました。その名は、キャンディ・H・ミルキィさん。自らを「キャンディー」と名乗り、女装愛好家として独自の人生を歩んできた彼女は、2025年3月に惜しまれつつ72歳で亡くなりました。

今回は、キャンディーさんの波乱に満ちた人生と、彼女が女装に目覚めたきっかけ、そして多くの人々に与えた影響について、わかりやすくまとめました。


幼少期に芽生えた「女装」の原点

キャンディーさんは1952年頃に生まれ、幼い頃から姉の洋服に憧れを抱いていたそうです。5〜6歳のとき、こっそりと女の子の服を着てみたことが、彼女の女装人生の始まりでした。まだ「LGBT」や「ジェンダー」という言葉が一般的でなかった時代に、自分らしさを模索していたのです。


結婚・家庭と“封印された女装欲”

高校卒業後は印刷所に就職し、定時制高校に通い直します。そこで出会った同い年の女性と22歳で結婚。三人の子どもに恵まれ、マイホームも持ち、表向きは“普通の家庭人”としての生活を送っていました。

しかし、松田聖子さんの白いドレス姿に感動し、再び女装への情熱が蘇ったといいます。この時期から、再び“自分らしさ”を求める気持ちが強まっていったようです。


仕事での独立と、家族との別れ

キャンディーさんは印刷所を辞め、写植業や版下制作業で独立。しかし、女装趣味にのめり込むうちに事業が傾き、家庭内の関係も悪化。最終的に1994年、女装を理由に離婚。家庭は崩壊してしまいます。

それでも彼女は、自分のスタイルを貫く道を選びました。


女装デビューとメディア活動

1984年には女装クラブ「エリザベス」で本格デビュー。1980年代の原宿・歩行者天国では、派手なドレス姿で話題となり、注目を集めます。

1988年にはアマチュア女装者向けの雑誌「ひまわり」を創刊。編集長兼発行人として、女装文化の普及に尽力しました。テレビやメディアにも出演し、“女装のパイオニア”的な存在となります。


晩年の闘病と博物館活動

離婚後は羽田空港でグランドハンドリングの仕事に就き、定年退職後もアルバイトを続けましたが、脳梗塞を発症。その後はシルバー人材センターで清掃の仕事をしながら、2017年には東京・柴又の「昭和レトロ喫茶セピア」2階に**「キャンディ・キャンディ博物館」**を開設し、館長として活動を続けました。

2020年には特発性間質性肺炎と診断され、余命5年と宣告を受けますが、**YouTubeチャンネル「キャンディびんぼう」**を開設。病と闘いながらも、自分らしさを貫いた発信を続けました。

2024年には念願の歌手デビューも果たし、多くの人に感動を与えました。


最期とその後

2025年3月19日、体調を崩してICUに緊急入院。3月27日、特発性間質性肺炎のため息を引き取りました。享年72歳でした。

彼女の人生は、「自分らしさを大切にすること」「偏見に屈しないこと」「年齢を理由に夢を諦めないこと」の大切さを教えてくれました。


キャンディーさんの人生年表

出来事
1974年結婚、三児の父となる
1976年出版社「雄美社」設立
1984年女装クラブ「エリザベス」で本格デビュー
1988年女装雑誌「ひまわり」創刊
1994年離婚、家庭崩壊
2017年「キャンディ・キャンディ博物館」開設
2020年特発性間質性肺炎の診断
2021年YouTube「キャンディびんぼう」開設
2024年歌手デビュー
2025年3月27日死去(享年72歳)

女装を通じて伝えた「自己表現」の尊さ

キャンディーさんは、自らの人生をかけて「女装=自分らしさの表現」であることを体現しました。家庭崩壊や事業失敗といった数々の困難を経験しながらも、派手なロリータ衣装に身を包み、原宿や下町を堂々と歩く姿は、多くの人の心を動かしました。

また、自身について「女性にも恋をするが、女装した自分にも興奮を覚える」と語るなど、性の在り方にも正直に向き合っていたのです。


最後に:キャンディーさんが残したもの

「女装」や「性表現」が今ほど自由でなかった時代から、一貫して“自分らしさ”を追い求めたキャンディーさん。その生き様は、時代を超えて私たちに問いかけます。

「あなたは、自分らしく生きていますか?」

PAPAN

皆さんが気になっている芸能人の時事ネタを中心にまとめていきます! 是非見ていってください!

This website uses cookies.