今回はプロレスラーで文京区議会議員としても活動していた西村修さんについて
若い頃について
師匠・藤波辰爾との確執について
などまとめていきます
西村修さんの若い頃について

西村修さんの若い頃は、プロレスラーとしてのキャリアを築き上げた重要な時期でした。
プロレスデビューまで
- 1971年9月23日、東京都文京区に生まれました。
- 高校在学中に新日本プロレス学校へ入門し、1990年4月に正式に新日本プロレスへ入門しました。
- 1991年4月21日、沖縄県糸満市で飯塚孝之選手との試合でデビューを果たしました。
海外修行と成長

アメリカ遠征(1993年)
- 22歳の時、アメリカ・フロリダ州へ武者修行に出発。
- ヒロ・マツダ氏に弟子入りし、本格的な修行を開始しました。
- フロリダを拠点とし、以下の名レスラーから指導を受けました:
- ドリー・ファンク・ジュニア
- ジャック・ブリスコ
- カール・ゴッチ
ヨーロッパ遠征(1995年)
- オランダのクリス・ドールマン道場で修行。
- イギリスのアスパル・レスリング・ジムでも特訓を受けました。
日本帰国後の活躍
- 1995年10月に日本へ帰国。
- **藤波辰爾氏の自主興行「無我」**の旗揚げ戦に出場しました。
- 1993年の第4回ヤングライオン杯では準優勝し、若手レスラーとしての実力を示しました。
プロレススタイルと人気
- **グラウンドでの極技(サブミッション・ホールド)を得意とし、そのスタイルは「西村ワールド」**と形容されるようになりました。
- 若い頃からイケメンレスラーとしても知られ、その容姿と実力で多くのファンを魅了しました。
西村修さんの若い頃は、海外での修行を通じて確かな技術を身につけ、帰国後にその実力を存分に発揮した時期でした。
藤波辰爾氏と西村修さんの確執


藤波辰爾氏と西村修さんの間には長年にわたる確執がありましたが、晩年には和解の兆しが見られていました。
確執の始まり
- 1995年:藤波辰爾氏の自主興行**「無我」**の旗揚げ戦に西村さんが出場し、師弟関係を築きました。
- 2006年:「無我ワールド・プロレスリング」を設立するなど、両者の関係は深いものでした。
- 2007年10月:西村さんが退団する際に確執が生じ、その後約18年間にわたり疎遠になりました。
- 確執の詳細な理由は明らかにされていませんが、長年の師弟関係が突如断絶したことから、プロレス界でも注目を集めていました。
和解の兆し
- 2025年1月31日:
『ジャイアント馬場没25年追善~太陽ケア引退試合~木原文人リングアナデビュー35周年記念大会』で、西村さんが欠場しました。 - この試合で、藤波辰爾氏が代役として参戦し、西村さんを支えました。
- 西村さんは藤波氏の行動に対し、
「代役が決まりましたという連絡を受けた時は、師匠の器の大きさに涙が止まらなかったです」
と語り、退院後の再会を望んでいたことを明かしました。
藤波辰爾氏の追悼コメント
- 西村さんの訃報を受け、藤波氏は次のように語りました。
「確かに俺と西村の間に時間が空いたことは事実だけど、俺の中ではもう何もない」
「彼も厳しい闘いをやってきたと思う。とにかくご苦労さんというのとお悔やみを申し上げます」
まとめ
長年続いた確執は最終的に和解へと向かっていましたが、西村さんの突然の訃報により両者の再会は叶わぬものとなりました。
師弟関係の複雑な背景を持ちながらも、最終的には互いを認め合い、和解に向かっていたことが伺えます。
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